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院長の生い立ちから現在まで

院長、青山達也の紹介:その生い立ちから現在まで

幼少時代

高度経済成長が終焉し安定成長に移行する時期であった1975年、宮崎県都城市にて青山達也は生まれました。父親は鹿児島出身、母親は宮崎出身という生粋の九州男児です。 後に団塊ジュニア世代と呼ばれる私たちの世代は、人口が多く、子供の頃より、受験戦争と呼ばれるほどの入学試験などの競争を経験した世代です。いまのゆとり教育とは正反対の時代でした。 しかし、まだ幼い私は、将来そんな競争が待っているとも知らず、九州の田舎でのびのびと成長します。

2歳になる頃、宮崎県高千穂に引っ越しました。 高千穂は、高地に位置するため、南国宮崎とは思えないほど夏は涼しく、冬は寒い所です。私の両親はともに教師をしていたため、私は2歳から幼稚園でほぼ一日を過ごしました。そのときの記憶は、少しだけ残っていますが、いつも年齢が上の人たちと遊んでいたように思います。母と過ごす時間が少なく、寂しく思うこともありましたが、この幼稚園時代に、今のわたしの社交的な性格が形成されたのではないかと思っています。

小学校時代

小学校は高千穂小学校に通いました。友人や弟と通った小学校までの道のりはとても楽しいものでした。急な坂をのぼり小さい山を越え、歩道のないトンネルを抜け、湿気の多い神社の中を通り、おがくずのにおいのする階段を下り、小川のせせらぎを聞き、また急な階段をのぼって、ようやく小学校に到着です。道すがらミヤマクワガタを見つけて小学校で自慢したり(普通のクワガタはたくさんいますので)、トンネル脇のイモリや、ヘビを見つけたり、黄イチゴを見つけてたべたりという、大変自然が豊かな通学路でした。

小学校にあがった頃から、父の勧めで剣道を習い始めました。高千穂といえば、当時剣道ではとても有名なところで、町をあげて剣道に取り組んでおり、中でも高千穂高校は強豪として知られておりました。私の入った町の剣道場は、とても厳しい道場で、ここではただがむしゃらに練習することを繰り返しました。今でも人生で一番タフな思い出として残っています。練習中に気合いが入っていないと、「走ってこーい!!」と言われます。 約1Kmほど先の高千穂小学校まで、防具を全部つけたまま、裸足で舗装道路の上を走り、運動場を3週して帰ってくるのです。その途中にはものすごく急な坂道もあります。

その分試合では強く、町の剣道大会ではその道場がトップ3を独占するほどでした。私も個人戦で準優勝したトロフィーをもらったことがあります。きつく辛い練習でしたが、毎日の一つ一つの小さな積み重ねが大きな道となって開けるということを身をもって体験し、かつ最後まであきらめない強い精神力を養うことができた、とても貴重な経験だったと思っています。

強い精神力といえば、もうひとつ、印象的な出来事が!小学校1年生の時に、ランドセルを前に装着し坂道を走って下って転倒し、右腕を骨折 したことがありました。鍵っ子だった私は、泣きながらなんとか家まで辿り着き、折れてない方の左手で家の鍵を開け、さらに必死で両親の職場に電話をかけ(じりじり回すタイプの電話です)、ことなきを得たことがありました。

いまわたしには同じ年頃の子どもたちがいますが、まだ幼い彼らを見るにつけ、自分の精神力の強さを再確認しています。(子供たちの教育は今後の課題ですね!) 小学校3年生のときに、宮崎県の海側に位置する延岡市に転校しました。自転車に乗れる平地です。家は海も川も近く、田んぼでのザリガニ取り、川でのフナ釣 り、海での磯遊びや海釣りなどで遊びました。剣道は道場を変えて続けました。高千穂とは違うスタイルの剣道でしたが、九州内の様々な大会にレギュラーとして参加したのを覚えています。

道場内では、総当たり稽古というのがあり年齢関係なく稽古をしていましたが、さすがに中学生相手だと力の差は歴然としており、いつもコテの防具がないところに打ち込まれ、泣いてました。毎日が勝負の連続で、全敗したり、時には女子に負けて悔し泣きをしていたことを思い出します。昔から負けず嫌いでした。高学年になると水泳と少林寺拳法を習いました。ひたすらこころとからだを鍛える小学生時代だったと思います。また小学校時代は、家族で日本全国いろいろな旅行に連れて行ってもらったことも良く覚えています。

父は勉強熱心で、生徒思いの、忙しい教員でありましたが、時間をつくっては家族との触れ合いを大切にしていました。そんな父の背中をみて育った私には、自然と家族を、そして生徒を(今の私にとっては、スタッフや患者さんに当たるのでしょうか。)大切にする気持ちが刷り込まれていたのかもしれません。

中学校時代

田舎にはお受験なんてありません。中学校は、そのまま公立の中学校に進学です。この頃から、世界に通用する人間になりたくて、英語の塾に通い始めました。数学と英語は得意でしたが、一方で、国語と社会の授業はほとんど聞いていた記憶がなく、ひたすら後ろの方でトランプをしていました。自分のやりたいことだけをとことん極める、今の自分のスタイルがここにも表れています。

中学時代での特徴は、よく読書をしたということです。ハマっていたのは、故星新一さんのショートショートシリーズです。ほぼ全て読んだと思います。中学時代に始まった読書の習慣は現在まで絶えることがなく、今でも月に数十冊は読んでいます。読書によって人生の幅を広げることができました。

中学時代での思い出深い経験の一つに、アメリカのカリフォルニアに1ヶ月ホームステイしたことが挙げられます。このときの経験から、英語の大切さを身をもって知りました。そして、世界の広さも!
世界で活躍できる人になりたい、というこの頃からの思いは今でも持ち続けていますよ!

中学の時は、プラモデル作り(ガンダムに始まり、バイクなどのちょっと細かいものや、ペインティング)や電子工作(半田ゴテをつかったもの)をよく作っていました。あとは木工や竹を使った工作を楽しんでいました。手先が器用で、もの作りは大変好き!本気で大工になりたいと考えていました。また、家庭科の教師であった母親の影響もあり、料理の手伝いをよく楽しんでいました。中三の進学相談時には、大工に弟子入りをするか、工業高校に行くかという選択を考えていました。

高校時代

ある程度成績が良かったので、「大工は高校を卒業してからでもなれる!」と思い、公立の進学校に進みました。 高校では、音楽に目覚めました。当時はハードロックがはやっており、ウォークマンを聞きながら自転車で30分ほど走って登校していました。

友人とCDの交換をし、90年代から、80年代、70年代、60年代とさかのぼり、いわゆるロックのルーツと言われるものはほとんど全て聴きました。イントロクイズもできるぐらいだと思います(今は曲名とバンド名がでませんが)。

高1で、憧れのエレキギターを買ってもらい、帰ったらひたすらフィンガリング(左手)とピッキング(右手)の練習です。テレビは観ませんでしたが、音楽は勉強中も聴いていました。宿題が増えてくる高2までは、夜中にオールナイトニッポンを聴き、ひどい日は二部まで聴き、音楽を聴きながら登校していました。しかし、授業中に寝ることはほとんどなく、大学進学に向けて、徐々に勉強の量が増えてきました。

高校3年では、かなり勉強しました。朝7時30分から学校の授業が始まり、夕方まで続き、帰ってからずっと勉強です。田舎だったので、塾や予備校などはありません。そのため高校がサポートしてくれました。結局夏休みも冬休みも正月も、学校にいって勉強していました。

進学先は経済的な観点から私立への進学は全く考えておらず、国立のみに的を絞っていました。当時進学先候補に挙がっていたのは、ものづくりの夢から、もちろん工学部。そしてもう一つは、いよいよ歯学部の登場です。母の叔父が歯科医師だったので、小さいころからその歯科医院にはよく遊びに行っていました。

患者さんに笑顔で「ありがとう」と言われ、楽しそうに仕事をしている叔父の姿をずっと見てきたわたしは、進路を変更し、指先と頭を使う歯学部という選択をしました。二次試験は得意な英語と数学で、無事現役合格です。

大学時代

四国の徳島にある徳島大学歯学部に入学しました。
1学年60人という小クラスで、六年間家族のような付き合いです。妻も同級生の一人です。
「大学に入ったらめいっぱい遊んで、青春を謳歌するぞ!」と思っていましたが、バレーボール部に入部したことでその夢は無残にも打ち砕かれました。いわゆるサークルという「ゆるい」ものではなく、れっきとした体育会系の部活です。

部活は、暗黙の了解で開始30分前に集合し、筋トレから入ります。バーベルを持ち上げ、その後3キロほど走り、それから体育館にあがりハードな練習を2時間。学生時代の土日は地域のリーグの試合ばかりです。全国の歯科学生が集まる大会では、準優勝と優勝を経験しました。試合結果もさることながら、部活を通して得たものは、1年生から6年生、そしてOBの方々との人脈です。生涯の友となった数多くの先輩や友人との交流はいまでも活発で、良き相談相手となってくれています。

部活は頑張りましたが、一方で勉強については、1、2年の教養時代はほとんど勉強せず、ゲームをしたり、飲み会をしたりで、追試ばかりでした。授業もよくサボりました。3、4年生から少しずつ本格的な歯科の授業が始まりましたが、いかんせん基礎系の授業や実験だったので、ノートを友人に見せてもらい試験をクリアしていました。これらの基礎系の授業の重要さが当時はまだ理解できず、「歯科となんの関係があるのだろう」と思うなど、今となっては馬鹿な考えをしていたものです。基礎の知識があってこその臨床なのに!

5年生からは臨床の話もはじまり、まじめに勉強をしていましたが、授業に面白みを感じなかったので、試験は非常に苦労しました。その反面、歯を削ったり、歯の形に石膏を削ったり、義歯の宿題をするなどの、実技は大好きで、かつ得意でありました。実技が苦手な友人の宿題を請け負っていたほどです。そして5年の後半ごろから、授業では教えてくれない歯科の本当の素晴らしさに目覚め、授業では使わない世界レベルのテキストを買って、自主的な勉強を開始しました(実はこれが今でも役に立っています!)。

6年生時代は、病院実習も始まり責任感がとわれるため気合いをいれて望みました。
試験は、すべて筆記か口頭だったので、ごまかしがききません。それが国家試験のある1ヶ月前まで続きます。つまり、国家試験対策をする時間は1ヶ月しかない状態でした。幸いにも、厳しい試験をパスして来たおかげで、国家試験もパスすることができました。国家試験対策と同時に、6年時には、進路選択もしなければなりません。将来は、海外に行きたかったので、海外事情に詳しい先生を探して就職活動をしました。

勤務医時代

最初は神奈川県のインプラントを行っている医院に勤めました。当時インプラントセンターは非常に少なく、これから発展が見込める分野であったということ、さらには海外の情報に詳しいという理由で勤務先に選びました。

テレビを家におかず、職場から徒歩2分のところに住み、夜中の3時まで臨床の書物を毎日読んでいました。時々、目の下にクマを作っていることを院長に怒られました。半年程たって、千円のラジオを買いました。聞くのはずっと米軍放送。英会話教室にも通い始め、休みの日はほぼ一日中英会話教室のクラスを消化していました。そして、帰ったら教材で発音練習です。この時身に付けた英語力は、今現在英語の論文を読むときや、海外の学会、セミナーに参加する時に大変役立っています。

一件目のインプラントセンター、そして、二件目の予防に力を入れている医院、その後、3件目の医院と、勤務医時代を過ごしましたが、どの医院においても、現実は理想とはかけ離れたものでした。患者さんを物のように扱い心の通わない歯科医療、コストを抑えて利益だけを追求する歯科医療を目の当たりにしたのです。各医院のモラルハザードも確信し、思い切って辞めました。自分のやりたい歯科医療を提供するには、もう海外に行くしかないかなと考えて・・・。

生後半年の長男を抱えて失業。当時妻にかけた心配は大変大きく、彼女は胃痛で医者に通ったほどでした。
しかし、ここで諦めてはと思い一念発起し、失業中にセミナーに通いました。そのセミナーは、後に、世界中にインパクトを与えたセラミック臨床の先生の講演でした。そして、ここで運命の出会いが!

セミナー後の懇親会で、私が人違いをして、ローズタウン歯科クリニックに勤めているY先生に声をかけたところからご縁が生まれ、一緒に働かないか、と誘われたのです。これまでの、モラルハザードなドクターたちとの経験を覆すような素晴らしい先生との初めて出会いでした。ローズタウン歯科クリニックでは、自分の情熱を院長先生やY先生にぶつけると、即座に熱い反応が返ってきて、勉強になる日々を過ごすことができました。多くの相談をさせて頂き、大変感謝しています。また、院長先生とY先生のもとで、歯周病をはじめインプラント治療、歯内療法、審美修復、矯正など多くのことを学びました。

また、一流の先生との交流の場にも参加させていただき、上質の情報に触れることもできました。自分の臨床家としての才能が一気に開花し始めることとなりました。基礎的な勉強が一段落し始めると、アドバンスな内容に取り組みはじめました。顕微鏡治療を10年以上前から行われている、四谷のS先生のところに何度も見学に行き、S先生のセミナーや全ての著書から学びました。また、インプラントでもアドバンスセミナーを受け、さらなる高水準の歯科医療を患者さんに提供するためには、顕微鏡や様々な機器が必要になってきました。

そのようなわたしの状況をみた院長先生が、「もう十分に任せられる。ローズタウンを引き継いで、自分の思う診療をやりなさい。」とおっしゃってくださり、2010年、独立することとなりました。現在、患者さんの負担を減らすための治療を第一に考え、新しい形の歯科医療の運営方法を創り上げるべく日々努力しております。この先も私の挑戦は続きます。応援よろしくお願いいたします。

青山達也

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