院長のとっておきの話
院長のとっておきの話 その118 化学物質過敏症を調べ直す 前編 定義は、なぜ一つに決まらないのか

■ においで、具合が悪くなる人がいる
柔軟剤や香水、芳香剤、洗剤、たばこの煙。多くの人にとっては気にならない程度のにおいで、頭痛やめまい、吐き気、だるさなどが出て、暮らしに困っている人がいます。日本では、このような状態は「化学物質過敏症」と呼ばれています。

日本では2009年に、保険診療で使う病名の一覧に「化学物質過敏症」が登録されました。消費者庁や厚生労働省など5つの省庁は、「その香り困っている人もいます」というポスターを作り、香りへの配慮を呼びかけています。
その一方で、この病気には分かっていないことが多く残っています。自治体の案内にも、「標準化された診断基準、治療法は確立されていません」と書かれています。2024年に出版された、アレルギー科の医師による一般向けの新書『化学物質過敏症とは何か』(渡井健太郎著、集英社新書)も、同じことを率直に書いています。

「化学物質過敏症の診断法も治療法も、現在のところ客観的かつ科学的には確立されていません」
この連載では、化学物質過敏症について、診断の決まり(定義)がどのように作られてきたのかを、もとになった研究にさかのぼって確かめます。前編では定義を、後編では歯科で行われる「検査」を取り上げます。
歯科医師がこの話を書くのには理由があります。化学物質過敏症を調べる質問票の中に、麻酔薬や入れ歯、インプラントについての質問が入っているからです。海外には、歯の詰め物などの材料が体の不調の原因ではないかと心配する人を、専門に診る部門もあります(後編で紹介します)。
■ 「6つの条件」は、どう決まったのか
化学物質過敏症の定義としてよく知られているのは、1999年に論文として発表された「1999年の合意」の6つの条件です。
・長く続いている(慢性) ・さらされるたびに、同じ症状が繰り返し起きる ・ふつうなら問題にならない、ごく少ない量で症状が出る ・化学的に関係のない、いくつもの物質に反応する ・原因と思われるものを遠ざけると、症状が軽くなるか消える ・症状が、体のいくつもの部位(臓器)に出る
このうち最初の5つは、1989年の調査から選ばれたものです。1993年にまとめられた論文によると、化学物質過敏症に関心がある、またはよく知っている医師ら148人に調査票を送り、回答した89人の半数を超える人が重要だと答えた条件でした。6つ目は、1999年の論文で著者たちが追加を提案しました。
1993年の論文は、選ばれた条件が「すべて本人の申告にもとづく」ことを、はっきり書いています。血液検査や画像検査の数値で決まる条件は、一つもありません。1999年の合意は、研究者と臨床医のグループが、この6つの条件を診療でも使うよう論文で提案したものです。
■ 定義によって、当てはまる人が変わる
1996年には、世界保健機関(WHO)などが共同で進める国際化学物質安全性計画(IPCS)が、ドイツのベルリンで専門家会議を開きました。この会議は、「化学物質過敏症」という名前は原因について根拠のない判断を含んでいるとして、「特発性環境不耐症(IEI)」と呼ぶ方が適切だとしました。特発性とは、原因が分からないという意味です。

この会議の定義と1999年の合意には、大きな違いがあります。会議の定義は、ほかの体の病気や心の病気で説明できる場合を除きます。1999年の合意は、ほかの病気があっても、6つの条件を満たし、ほかの一つの体の病気(たとえば肥満細胞症)だけですべての症状を説明できないなら、化学物質過敏症とも診断する(両方の病名をつける)としています。
この違いが意味を持つのは、心の病気を抱える受診者が少なくないからです。ドイツの大学病院などの環境医学の外来で、291人の受診者を調べた研究があります。受診者全体、とりわけ化学物質過敏症と考えられる人たちには、心の病気(精神疾患)が、年齢と性別をそろえた一般の人より多く見られました。そして多くの人で、その病気は、環境についての訴えが始まる何年も前から始まっていました。研究者たちは、この結果は化学物質の毒性で説明する考え方を支持しない、と結論しています。
心の病気が先にあったことは、今感じている症状や苦しさが偽りだという意味ではありません。ただ、定義の文面どおりに当てはめると、心の病気で症状を説明できると判断された人は、WHOなどの会議の定義では化学物質過敏症から外れ、1999年の合意では両方の病名がつくことがありえます。どの定義を使うかで、同じ人が入ったり外れたりしうるのです。
■ 調査によって、数字が大きく違う
定義が違えば、患者さんの数も変わります。
日本で20〜65歳の約15万人に尋ねたインターネット調査では、医師に化学物質過敏症と診断されたことがあると答えた人は0.9%でした。アメリカで約1,100人に尋ねた調査では、医師などの医療者に化学物質過敏症と診断されたと答えた人が12.8%、化学物質に敏感だと答えた人が25.9%でした。日本の質問票の新しい基準を作った研究では、比べた一般の人たちの5.6%が「化学物質過敏症の可能性が非常に高い」に当てはまり、研究者は、一般の人の約6%が当てはまる可能性があるとしています。

調べ方と定義によって、1%に届かない数字から、4人に1人という数字までの幅があります。「患者さんは何人」という数字を見かけたときは、どの定義で、どのように数えたのかを確かめる必要があります。
■ 「同じ症状が繰り返し起きる」を確かめる
6つの条件のうち、「さらされるたびに、同じ症状が繰り返し起きる」という条件は、試験で確かめることができます。
これを確かめる方法が、誘発試験です。本人にも、試験をする人にも、本物の化学物質か偽物(においのない空気など)かが分からないようにして吸ってもらい、症状が出るかどうかを比べます。このように、どちらか分からないようにする工夫を「盲検」と言います。

2006年に、こうした試験37件、化学物質過敏症の人784人分の結果をまとめた研究(系統的レビュー:複数の研究を集めて、まとめて評価する研究)が発表されました。もとになった試験の多くは、どちらか分からないようにする工夫が十分ではありませんでした。結果は次のとおりです。
・化学物質のにおいが分かったと考えられる試験21件のうち、19件で症状が出ていた ・においを感じ取れる境目(閾値)か、それより薄い濃度で行った試験7件のうち、6件では一貫した反応が見られなかった ・においを感じ取る力を調べた試験6件では、化学物質過敏症の人の方がよく感じ取れる、ということはなかった ・別のにおいで、試験に使う物質のにおいを隠した試験3件では、いずれも物質と症状の結びつきは見られなかった

研究者たちは、化学物質過敏症の人は誘発試験に反応する、ただしその反応は、本物と偽物の違いが分かるときに起きている、とまとめています。そして、反応の仕組みは化学物質そのものに特有のものではなく、本人の予想やそれまでの考えと関係しているかもしれない、としています。
ただし、反対方向の結果もあります。同じレビューの中でも、鼻をクリップでふさいだりマスクをつけたりした試験3件では、症状が確認されました(研究者は、目から入った可能性を指摘しています)。鼻栓をつけた条件の研究としては、カナダの小規模な研究(化学物質過敏症の人10人と、そうでない人7人)もあります。どの物質かを本人に知らせず、鼻栓でにおいもかげない条件で、接着剤や乾燥機用の柔軟剤シートなどに対して、汗による皮膚の電気の変化が、そうでない人や無香料のシャンプーに比べて多く見られました。研究者は、目やのどで物質を感じ取ったことが関わっている可能性も含めて、仕組みはまだ分からないとしています。

2006年以降も小規模な研究が続いていますが、結果は分かれています。ドイツの二重盲検試験(化学物質過敏症の人20人と、そうでない人17人)では、化学物質過敏症の人が、溶剤ときれいな空気をそうでない人より正しく見分けられることはありませんでした。一方、スウェーデンの研究(化学物質に敏感だと自覚している人18人と、そうでない人19人)では、これまでに報告されている、刺激を感じ取れる境目(閾値)より低い濃度の刺激物質(アクロレイン)を、別のにおいで隠して吸ってもらうと、敏感だと自覚している人の方が、目や鼻、のどの刺激を強く感じていました。研究者は、顔の感覚を伝える神経(三叉神経)の反応が変わっている可能性を指摘しています。
また、後編で紹介する質問票を開発したアメリカの研究者は、ふだんから浴びている化学物質のために反応が鈍くなっている可能性があり、背景の化学物質をできる限り減らした病院内の設備で試験する必要があるかもしれない、と指摘しています。
アレルギーの国際的な用語の取り決めでは、「過敏症」を、ふつうの人なら平気な量の、はっきり決まった刺激によって、客観的に再現できる症状が出ることと定めています。化学物質過敏症で、この意味での再現性が繰り返し確かめられたとは、まだ言えないのが現状です。
■ 「気のせい」とは違う
ここまで読んで、「結局、気のせいということか」と感じた人がいるかもしれません。研究が示しているのは、そういうことではありません。
誘発試験でも、症状が出ること自体は確かめられています。議論になっているのは、症状の引き金が化学物質そのものなのか、においや刺激を感じ取ったことなのか、という点です。においや刺激を感じ取ったことが引き金だとしても、症状や苦しさが偽りだということにはなりません。

1994年には、アメリカ肺協会、アメリカ医師会、環境保護庁、消費者製品安全委員会の4つの団体が、化学物質過敏症の訴えを心因性として片づけるべきではなく、十分な検査が必要だとする見解を出しています(1999年の合意の論文による)。先の新書の著者も、化学物質過敏症は決して「気のせい」ではなく、脳が関わる病気だと書いています。
■ 「脳過敏」という考え方
新書では、化学物質過敏症のしくみを「脳過敏」として説明しています。光や音、香りといった刺激の信号を、脳が抑えきれずに強く受け取りすぎてしまう状態です(中枢性感作)。著者自身、これはまだ世界的に解明されていない仮説で、化学物質過敏症の患者さんでこの仕組みが病理学的に確かめられた報告はない、と書いています。
脳の働きを画像で調べた研究はいくつかありますが、測った部位も方法も違い、どれも少人数で、まだ一つの結論にはまとまっていません。

スウェーデンの研究(化学物質過敏症の女性12人と、そうでない女性12人)では、においを処理する脳の部位の働きは、むしろ化学物質過敏症の人の方が弱く、神経が過敏になっている徴候は見られませんでした。その代わりに、注意や感情に関わる部位(前帯状皮質)の働きが強まっていました。一方、日本の研究(化学物質過敏症の人12人と、そうでない人11人)では、においをかいだときに、おでこの奥の部分(前頭前野)の血流が強く増えていました。

どちらも、においが分かる条件で行われています。アメリカの職業・環境医学の学会は1999年の声明で、化学物質過敏症の人をほかの人と区別できる一貫した身体の所見や検査の異常は見つかっていない、としています。今のところ、脳の画像で化学物質過敏症を診断する方法はありません。
■ 名前は、考え方を運ぶ
化学物質過敏症という名前は、原因が化学物質であることを前提にしています。特発性環境不耐症という名前は、原因が分からないことを前提にしています。脳過敏は、脳の受け取り方に原因を求める名前です。1996年の会議が名前を改めるよう勧めたのも、名前が原因について根拠のない判断を含むと考えたからでした。

新書は、病名に引きずられて化学物質への意識が過剰に働き、「刷り込み」のように訴えが広がってしまうことがあると書いています。一方で、化学物質過敏症で療養中の人が日常生活に支障をきたしている場合には、障害年金の対象となる場合があると、自治体は案内しています。

■ 次回へ
前編では、化学物質過敏症の定義が一つに決まっていないこと、そして、試験で確かめることができる「再現性」の条件が、盲検の試験では、まだ繰り返し確かめられていないことを見てきました。
それでも、においのために暮らしや仕事に支障が出ている人がいることに変わりはありません。アメリカの調査では、医師などの医療者に化学物質過敏症と診断された人の約6割が、過去1年のあいだに、職場の香りつきの製品のために仕事を休んだり、職を失ったりしていました。
後編では、歯科で「検査」を考えるときに、何が分かり、何が分からないのかを取り上げます。歯の金属は体に合っているのか。詰め物を外せば体調はよくなるのか。そうした疑問に、研究から言えることを整理します。

歯科医師 青山達也
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■ 参考文献
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